家は建てて終わりではありません

住宅ではなどがこもってしまうことが心配

家を選ぶことが大切になるの駅近小
間取りを考えるとことではなく

そこで、ちょっと話を戻して、イギリス人は、いわば空間の使用権を売買しているだけだという。
のことをもうすこし突っ込んで考えてみたいと思います私たち日本人は、家というものは二十五年も経ったら建て直すものだというふうに思いこんでいるふしがどこかあるようです。この頃は、センチュリーハウス計画なる考えが提出され、CHS(センチュリーハウスシステム)という規格もできて、家を百年間使い回そうなんてことを言いはじめていますが、さてそれは十全に実現し機能するでしょうか。たしかに、技術的にはそんなことは造作もないことに違いない。しかし、問題はちょっと別のところにあって、現状から言えば家は二十五年ももてばいいものだというふうにだれもがどこかで思っている。
これは家ばかりの問題ではなくて、たとえば自動車でも服でもなんでも新しいものほどいいという価値観が日本人にはある。それを再生して使い回すということはあまりしない。これは、戦後の日本が経済発展して豊かになったからという理由もあるかもしれないけれど、それだけではないというふうに思うのですじつは、日本人は昔から新しもの好きだった。
これはたぶん神様の観念と関係があるのではないかと見ています日本の神様は、日本の神様の総元締めは、天照大神を祀っている伊勢神宮でしょうけれど宮と称して、つねに新しく建て替えるしきたりですともかく新しいもの、汚れなきものがお好みで、古い汚れたものはお嫌いになる。たとえばこでは二十年に一度、式年遷あまてらすおおみかみぐう伊勢神宮だけでなく、春日大社も明治時代までは式年遷宮を行っていました。江戸時代の本を見ると二十一年目に行うとあったので、春日大社も昔のままの姿ではなく、壊しては新しく生まれ変わってきた。
工事業者に直接依頼する場合があ

間取りを考えるとことではなく

最近では、本殿が国宝に指定されたので、取り壊すことができないけれど、かたちだけ修理をするというやり方で二十年に一度、式年遷宮を行っています。
結局、まだ古くなっていないものを取り壊して、また新しい材木で造る。
それが神様に対する礼儀だと思っているのです。
どうしてかというと、年月が経って建物が汚くなってくると、神様はもう寄りつかない、の疫病神なんていうロクでもないものどもが寄りつくというふうに考えているわけです。
代わりに貧乏神だじつは、伊勢神宮も、春日大社も、日本家屋というものはすべからく方丈記の方丈と原理的にはそれほど変わりはないので、極言すれば、柱と柱を組み合わせて屋根を乗せただけのものです。また、お寺の五重塔にしても、修理の際はすべて部材を取り外し、修補してのちに、また組み立てれば元通りになる。というように、日本の家屋は実は取り壊し組み立て自由なところがありました。そして新しい材木を加えたりしつつ、造り替えるのはよいこととされていたのです。
桂離宮にしても、古いものだというけれど、部材を取り外したり、一部手を入れたりとか、壁を新しくしたり、また増築したりして、当初のかたちとはずいぶん違ったかたちになりながら生きながらえているわけで古いものをそのまんまずっと使い続けているわけではないわけですこういうやり方で、古いものをリノベーションしつつ、新しい生命を吹き込むという歴史原則的には新しいもの好きであったけれど、すべてを新しくしてしまったわけではない私たちの祖先は、を重ねてきました。
けれども、いまやそうした歴史をすっかり捨て去って、新しいものだけがいいという想念だけが残ってしまった結果が現在の家屋です。しかるに、そうやってスクラップ&ビルドを続けているとどうなるでしょうかエネルギーの浪費や、廃棄物の山積、環境の破壊、そして文化伝承の断絶一方で環境を破壊しながら、一方で良いものを捨ててしまうという二重の罪を犯すことになるだろうと、そリノベーションをしながら、古いものを生かしつつ新しいものに造り替えていくというやり方をもっと積極的に進めることがあってよい。

建設現場の隣で始

家を何代にも亘って使い継ぐのを原則とする隈流の住宅意識のなかでは、家が無用のゴミとなっていくことはほとんどありません。そのほうが、実はこれからの時代には叶ったやり方であるに違いないというのが私の意見でこを考えておかなくてはなりません。
そこで、これからは、昔のように現在のように、酉洋のデザインだけを真似て家を造り、取り壊してはどんどん捨てるということではこの狭い国はたちまち廃棄物でいっぱいになってしまいます。そうではなくて、外見の背後にある家の思想をこそ学んで欲しいと思うのです。

一国一城の主幻想それでも、日本人は、おおく「古い家を取り壊して、一度は自ら新しい家を建てたい」と思うだろう。
一国一城の主的観家にこのはつねに、オレが建てた家だ、男子一生の家だという意識が投影されるからです。
念が日本人の心の中に深く根づいています。
昔はよく、家持ちの人で、息子が嫁をもらう際、その嫁の実家が家を持っているかどうかを問題にする向きがありました。自分の家を持っているかどうかでその家の鼎の軽重が問われたのです。もちろん今でもそういうことを言う人はいます。一生働いたのに、自分の家も持てなかった男を甲斐性なしと言い、見下げるような傾向がどうしてもあります。
かなえこれは、ひとつには明治以後の立身出世主義の弊害です。
江戸時代は階級社会で、身分による安定した意識(それが良いか悪いかはちょっと別の問題として、いわそれでも庶民は、自分の家など持っていないのが普通でした。
ゆる知足安分という考え方がありました。
ちっとも困らなかったのです。
仮に、商売のほうで年季奉公を勤め上げて、暖簾を分けてもらって独立をしても、必ずしも自分一人の家を持ったわけではありません。小金を貯めて、自分で家作を持てば家持ちになれることもあったけれど、ほとんどの人々は借家に住んでいた。それはそれでよかったのです。
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る場合は在宅介護やお年寄りために家

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念が日本人の心の中に深く根づいています。
昔はよく、家持ちの人で、息子が嫁をもらう際、その嫁の実家が家を持っているかどうかを問題にする向きがありました。自分の家を持っているかどうかでその家の鼎の軽重が問われたのです。もちろん今でもそういうことを言う人はいます。一生働いたのに、自分の家も持てなかった男を甲斐性なしと言い、見下げるような傾向がどうしてもあります。
かなえこれは、ひとつには明治以後の立身出世主義の弊害です。
江戸時代は階級社会で、身分による安定した意識(それが良いか悪いかはちょっと別の問題として、いわそれでも庶民は、自分の家など持っていないのが普通でした。
ゆる知足安分という考え方がありました。
ちっとも困らなかったのです。
仮に、商売のほうで年季奉公を勤め上げて、暖簾を分けてもらって独立をしても、必ずしも自分一人の家を持ったわけではありません。小金を貯めて、自分で家作を持てば家持ちになれることもあったけれど、ほとんどの人々は借家に住んでいた。それはそれでよかったのです。